もうずいぶんと昔のことだが、カミさんとはじめて一緒にパリに行ったときに軽い喧嘩をした。原因はおみやげだ。あの人には何を選んだらいいのだろうか、この人にも何か買って帰ったほうがいいかもしれない。街を歩いているうちに、そんな話題になった。おみやげのことばかり考えていたら、せっかくのパリ滞在を楽しめないではないか。自分はそのようなことを言い返したのだと思う。それが、時差ぼけで頭がぼんやりしていたからか、言葉の通じない毎日に苛立っていたためか、いずれにしても余裕のある受け応えとはいかず、諫めるような口調になってしまった。あとは売り言葉に買い言葉だ。しかし、今、あらためて思い起こしてみると、別にカミさんは、おみやげについて何度もしつこく口にしたのではなかったような気がする。たまたま、溜息をつくような感じで呟いただけだったかもしれない。なのに、当時の自分はおみやげというものを毛嫌いしていたので、おみやげと聞き、必要以上に猛反発してしまったのだろう。多分、そうだ。
それにしても、どうして自分は、あれほどまでにおみやげのことを嫌っていたのか。とにかく、どこからどう見ても外国からのこのこ物見遊山にやって来た男に過ぎないのに、観光客が集まるような場所に行ってなるものかと気張っていた。あくまでパリジャンの如く、時間など気にせず日がな一日、カフェのテラス席でコーヒーを飲んで過ごす。週末は蚤の市でセルジュ・ゲンスブールやアンリ・サルヴァドールの7インチ盤を探す。エッフェル塔や凱旋門の前で記念撮影などもっての外。みやげもの屋に出入りするのは最も恥ずべき行為。そうだ、たしかカミさんには、街を歩いていて誰かに似合いそうだなというものがたまたま見つかったら買えばいいと、説教を続けたのだった。要するにただの粋がりである。贈り物とおみやげの区別さえついていない。実に恥ずかしい。
すべて若気の至りの一言で片付けてしまってはいけないけれど、頑なにおみやげや記念写真を拒否する気持ちが年齢とともに薄れ、観光は観光として楽しもうという姿勢が持てるようになって良かったと思う。自分もちょっとは分別がつくようになったのだろうか。きっかけは知人にもらったおみやげである。その知人は皆既日食を観察するのが趣味で、何年かに一度、いろいろな場所へ長い旅に出ていた。ある年、南米から戻ったばかりの彼に会ったら、「これ、おみやげ」と言って、照れくさそうに小さな双眼鏡のようなものをくれた。覗いてみると、中にカラースライドが入っていてイグアスの滝が見える。ボタンを押すたびに別の写真が出てくる仕掛けになっていた。いかにも観光みやげ然としたおもちゃだったのに、何故かすごく嬉しくて、家に帰ってからも繰り返しイグアスの滝を眺め、行ったことのない未知の場所に思いを馳せた。それからは、どこに出かけても、みやげもの屋に寄るようになった。もちろん、美しい逸品が揃っているということは決してないけれど、ちょっとばかり気持ちがうきうきするようなものを見つけては買い集めているのだ。それが高じてしまい、ブラジリアにある国会議事堂の置物を鎌倉で買ったり、ビッグベンの形をした鉛筆削りを代官山で買ったりするようになった。こうなるともはや大人のすることとは思えなくなってくるが、いつかそこに行く機会が巡ってくるようにおまじないのつもりで買っているのだとかなんとか、そんな理由をつけて自分を誤魔化すことにしている。
◎ミュージック・ダイアリー6月『SOUVENIR』(ユニバーサル・インターナショナル/2007年5月発売)より。