February 8, 2010

胸を張って言うようなことではないけれど、引越が趣味みたいなものである。住処を変えるたびにいままでとは違う生活が始まる訳だから、人よりは「新しい暮らし」をたくさん経験しているかもしれない。たびたび引越を繰り返すうちに、これから新生活がスタートするのだという感慨はだんだん薄まっているような気もするが、とりあえず荷物をすべて運び込み、「最初に開ける」と書いた段ボール箱に入れたCDラジカセとCDを取り出して音楽を流すと、その家が急に自分に近しいものに感じられほっとする。この瞬間はなかなか心地良いし、ちょっとした儀式のようでもある。この個人的な儀式に不可欠なCDラジカセを買ったのは、鎌倉で暮らしはじめたときのことだ。

長いこと住み慣れた東京を離れ、それまでたった2回しか訪れたことのない鎌倉に引越そうと決めた理由が何だったか、いまとなっては判然としないのだが、20年近くも前の話なので仕方がない。ある晩秋の晴れた日、逗子に住む友人の家へ遊びにいった帰りに、大船で途中下車して駅前の不動産屋に寄った。そこで紹介された物件の中に、海まで歩いて3分の一軒家というのがあったのだ。すぐに見にいってみると、昭和9年(1934年)に建てられたという2階建てで部屋が7つもある立派な日本家屋だった。

どうやってカミさんを説得したのだろうか。とにかく、ほとんど即決でその家を借りることにして、すぐに引越の準備にとりかかった。それまで住んでいたところも木造の古い平屋だった。ただし、モダンな洋風住宅だったから、そこで使っていた家具はこれから住もうとしている家にまったく似合いそうもない。だからほとんどを友人たちに譲り渡した。どうせならオーディオ機器やテレビも新しいものに買い換えようと思い、これもまた友人の事務所で使ってもらうことにして譲った。結局、鎌倉に持っていくものは、寝具類とわずかな食器と調理道具、そして本とレコードとCDと洋服が詰められた山のような数の段ボール箱だけになった。荷造りが終了したのは引越当日の早朝、その日はクリスマスだったはずだ。

東京でもかなり閑静な地域に住んでいたつもりだったが、引越した日にはじめて経験した鎌倉の夜は、静かというよりも暗く寂しく怖いほどにしんとしていて、何か音楽なりテレビなりが鳴っていないと遣り切れなくなる感じがあった。カミさんはその夜、久々にひどい金縛りに遭ったらしい。自分も、海から吹いてくる風が雨戸をガタガタと揺らすたびにはっとして飛び起き、ほとんど眠れなかった。それで翌朝、慌てて駅前の東急ストアまで出かけていき、とりあえずいちばん安いCDラジカセを買ったのだ。間に合わせのつもりだったのに、音の出るものは床の間に置いたCDラジカセしかないという暮らしはその後もしばらく続いた。

バッハを聴き、ソフトロックを聴き、エノケンを聴き、ジャズを聴き、シャンソンを聴いた。その年の紅白歌合戦も、湾岸戦争が始まったというニュースも、すべてこのCDラジカセで聴いた。しかし、買ったばかりのCDラジカセで最初に聴いた曲が何だったのか、どうしても思い出せない。ただ、新しい生活を始めるとき無意識のうちに感じている緊張を、聴き慣れた音楽が和らげてくれるのだというのは、この引越のときに知ったことである。それは間違いない。

◎ミュージック・ダイアリー4月『NEW LIFE』(ユニバーサル インターナショナル/2007年3月発売)より