

約束よりもずいぶん早い時間に原宿に着いてしまったので、カフェに入って本を読みはじめた。夕べ、手に入れたばかりのその本を、気がつくとカミさんが先にページを繰っている。あわてて取り返し、寝る前に後ろのほうの日記の部分だけざっと読んだ。そして、怖い夢を見てうなされた。どんな夢かはあまりに怖すぎるから書かないでおく。家ではない、どこか明るい場所で読むようにしようと、今朝起きたときに思い、出がけにトートバッグに放り込んだ。コーヒーを飲みながら読み進めるうち、残りがだんだん少なくなっていくことに気づいて、今日はこのくらいにしておこうといったん本を閉じる。ウェイトレスを呼びとめてモンブランを頼んだ。何しろ、前作の『これは恋ではない』から10年も待ったのだ。いや、『東京の合唱』があったか。だから正確には10年ではないけれど、とにかく一気に読むのはもったいない。一気に読む必要もない。ちびちび、いこう。どこから読んでもよくて、適当に切り上げることのできる区切りがたくさんある本は、やっぱり素敵な散歩の伴である。いつもそういう本しか読んでいないかもしれない。そして、大概は最後まで読み切ることができないのだ。『これは恋ではない』に収められた文章のすべてに目を通したかどうかだって、実はあまり自信がない。しかし、だからこそ、自分はこういうタイプの本を愛する。どうやら自分は読書家ではないらしい。ずいぶん前に、「バー青山」でこの本の作者のDJを聴いたことがある。たしか、自分のような音楽の趣味を持つ人のために選曲したからぜひ来てほしいと誘われたはずだが、自惚れた記憶違いの可能性もある。それほど長くないセットにもかかわらず本当に素晴らしかった。アーロ・ガスリーの、たぶん『ラスト・オブ・ザ・ブルックリン・カウボーイ』のA面1曲目だったかの、フィドルのリールから始まって、オハイオノックス「テイキング・イット・イージー」、シカゴ・トランジット・オーソリティー「ビギニングス」と続いていく。それぞれの曲を、もう数えられないくらいの回数聴いているのに、まったく別の種類の高揚感があって、しかもそれが延々と続くのが信じられなかった。ぼんやりその夜のことを考えたら、頭の中の再生装置が、急にその順番で曲を再生しだす。胸が締めつけられた。そういうとき、自分の心理状態はどういうことになっているのだったっけと、また本を開く。そして、読みはじめる。ハッと我にかえると約束の時間になっていた。本を閉じ、トートバッグに放り込み、会計をすませて外に出る。なんだか、久しぶりにステンカラーコートを買いたいと思った。これはすっかり春めいた陽気のせいではない。
小西康陽『ぼくは散歩と雑学が好きだった。』(朝日新聞社)¥2,415

こんばんは、「カミさん」です。 肌のかさつきや、吹き出ものなどのトラブルが起こると、気分が下がっちゃいますよね。シミやシワ、たるみなども気になる年齢だし(といっても、夏の日焼けはやめられない。矛盾してるなー)。ケアするためにはあれもこれも揃えなきゃとやっていたら、いつのまにか洗面所は化粧品だらけ。ひとつで、いろいろな個所に対応できるものがあるといいのに…。ありました! それに近いものが。以前から情報は小耳に挟んでいたんだけど、実際に使ったことのなかったエリザベスアーデンの万能クリームを、友人が機内販売で私の分も購入しておいてくれたのですよ。早速、試してみました。色はうす茶色、テクスチャーはかなり固めのワセリンみたい。手で少し温めないと、のびが悪いかも。化粧品と聞いてイメージするような香りとはだいぶかけ離れていて、かなり独特。薬草とかスパイスのような、なんともいえない不思議な香りです。でも、何度か使ううちに癖になるんだけど。カサつき、ヒビ割れ、吹き出ものに効くスーパー保湿クリームで、これ一本で、顔だけでなく手も唇もかかとも、どこでも使えるみたい(洗面所もすっきりしそう)。夜、化粧水でのばしながら、目尻や口元、唇、その他の乾燥している部分に塗り、ついでに手にも塗って寝たら、翌朝にはツヤツヤ、張り、弾力のある肌に。もちろん手もツルりんこでした。吹き出ものはできていないので、まだ試していません、普段なら吹き出ものなんて憂鬱だけれど、早く効果を試してみたいから、ポチっとひとつくらいならできてもいいかな。
エリザベスアーデンのエイトアワークリーム 機内販売で購入

カミさんがパリから「ポワラーヌ」の胡桃パンを買って帰ってきた。明くる日の朝、薄切りにしたものをカリカリに焼き、知人からお裾分けしてもらったマーマレードを山盛りのっけて食べる。美味い。庭で採れた夏みかんの自家製マーマレード。真冬の頼りない陽光をもめいっぱい吸収して、大切に封じ込めておきましたといわんばかりの味わい深さがあり、幸せな気分に浸ることができた。 その木が生えている知人宅の庭を、はじめて訪れたのは去年の四月だ。「あれが、例の夏みかん」。彼が指差す方向を見ても、緑の葉をつけた大木が風に揺れているだけだった。「例の」と言うのは、夏みかんがたわわに実った様子を、前に写真で見せてもらっていたからである。彼の母上が彼の弟を妊っていたときに食べた夏みかんの種を、父上が庭に植えて育てた木で、実をつけるまでに25年もかかったらしい。いまでは数百個にもなるという夏みかんは、毎年二月に収穫され、皮を剥かれ、下処理され、水にさらされ、砂糖とともに煮込まれて、マーマレードになる。話を聞いて、ぜひともそのマーマレードを食べてみたいと咽喉まで出かかったのだが、奥ゆかしい男を気取って痩せ我慢した。九月初旬、ワインを手土産に再びその庭を訪ねた。緑はますます濃密になっていて、じりじりと照りつける太陽を遮り、春よりも明暗がくっきりとしている。何時間も見続けて飽きることがなかった。この広さの庭なら、一日のうちに、ちょっとした短編映画を観るくらいの出来事が、絶えず起きているに違いない。ついつい長居する。再訪からしばらく経ったある日、知人が、庭を眺めながら考えたことなどを書き記しはじめた*。そのおかげでいまは、福寿草が咲いたとか寒咲菖蒲が咲いたとか、日々変化する庭を楽しむことができるようになった。先月のはじめ、「夏みかん収穫、近日中」という一行とともに、夏みかんの木を見上げて撮った写真が載っているのに気づき、そうか、いよいよかと、妙にわくわくしてしまったが、わくわくしたところでどうしようもない。やっぱりあのときに「欲しい」と伝えておくべきだったのだと拗ねていたところ、十日ほどして、知人が「マーマレードを渡したい」というメールをくれた。嬉しかった。 胡桃パンにつけて食べたマーマレードは、わずか二日で空になってしまった。来年の二月がとても待ち遠しい。次に会う機会があったら、今度は正直にそう言うようにしよう。

先週末だったか、ラジオからビートルズの「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」のカバー*が流れてきて、何故か急にラヴィ・シャンカールのことが気になりだした。いまだったら、この巨匠のことは、ノラ・ジョーンズの父親と言ったほうが通りがよいのかもしれない。ラヴィ・シャンカールのレコードを一枚だけ持っている。1965年の作品で『PORTRAIT OF GENIUS』というタイトル。中学三年か高校一年のときに、近所のレコード店のスタンプを貯めて、もらったものだったと思う。LPをもらえるだけの数にするには、たぶん一年はかかっているはずで、その当時の自分にとってかなり貴重なポイントだ。何と交換するか相当に迷ったはずである。なのにどうしてラヴィ・シャンカールを選んだのだろうか。ラヴィ・シャンカールがシタールを演奏する姿に感動してのことだとしたら、『モンタレー・ポップ・フェスティバル』か『ウッドストック』か『バングラデシュのコンサート』の中のどれかだろうと、最初は考えていたけれど、公開から何年か経って名画座で観た『バングラデシュのコンサート』以外、そもそもラヴィ・シャンカールの演奏シーンがあったかどうかすら覚えていないし、それよりも前にこのレコードを持っていたのだから、これらではないということになる。でも、台の上に座った三人の演奏者というイメージが強く焼き付いているのだ。タンブーラを弾いていたのは女性だった。YouTubeでラヴィ・シャンカールの映像を探してみた。『ディック・カヴェット・ショー』**での演奏がすごい。ジョージ・ハリソンと一緒に出演したときのもののようだから、71年か72年か。もっと古いものもあった。しかし「これだ」とはっきり思い出せるものはない。おそらく演奏するラヴィ・シャンカールの姿を目にする前から、彼の名前を知っていたということだ。となると、きっかけはジョージ・ハリソンに違いない。考えてみれば、ビートルズが解散して、最初に買ったメンバーのソロアルバムは『オール・シングス・マスト・パス』だ。ジョージ贔屓だった。胸のつかえが取れたのか取れなかったのか、どっちなのだろう。そんなことはもうどうでもよくなって、アマゾンでラヴィ・シャンカールのCDを買う。届いた箱を開け、すぐに聴いた。冒頭に彼自身の声でインドの古典音楽についてのナレーションがある。「ラーガは単なる音階ではない」。そうだ、最初に買った、いやもらったレコードの裏面にもラーガの解説が詳しく書いてあったのに、まったく意味がわからないまま聴いていたのだった。インド訛りの英語の主が、続いてターラというリズムの解説を始める。16拍子、そして10拍子について。16拍子の曲の終わりは16ではなく、1である。円を描くように最初に戻るのだ。抑揚の少ない、教育映画の解説のような喋り方は、ちょっと祈りの言葉にも、催眠術のようにも聞こえた。
RAVI SHANKAR『THE SOUNDS OF INDIA』(1968)
*STUDIO PAGOL「T.N.K.」 **DICK CAVETT SHOW